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生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

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昭南博物館

 日本軍が統治するシンガポールでは、中国系住民が虐殺され、戦後、山下奉文将軍はA級戦犯として処刑される事になる。その数は、戦後の日本側の発表では4000人、中国系住民側は4万人と主張している。1942年(昭和17年)2月に9万の英軍がその3分の1にも満たない日本軍に降伏した時、後にケンブリッジ大学教授となるコーナーはラッフルズ植物園の副園長だった。1887年(明治20年)にビクトリア女王の治世50年を記念して開設されたラッフルズ博物館・植物園は、マレー半島を中心に動植物、鉱物、考古学、民俗学関連資料を集積していた。科学標本等文化財の保護を要請する英総督の手紙を持って、コーナーは日本軍司令部にむかった。そこで、東北帝大講師の田中館秀三に出会う。地質学者の田中館は、物理学者、田中館愛橘の娘婿だった。博物館と植物館の保護に議論がおよんだ時、田中館は「やらなきゃならん」。田中館は山下将軍の支持を得て、昭南博物館の館長となる。一週間後には、尾張徳川家の第19代当主、徳川義親侯爵が到着した。マレー半島地域のスルタン達との交友が深かった徳川は、軍最高顧問として日本との関係をとりもとうとしていた。東京帝大で生物学を専攻し、徳川生物学研究所の創設者でもあったから、彼の到着は、日英双方にとり、本当に幸運だった。

 後にコーナー教授は書いている。「世界大戦は人間性をふみにじった。殺戮と虐殺が世界中を襲った。シンガポールでも罪なき多くの人が命を失い、地獄の苦しみを味わった。その中で、博物館を舞台に一つのドラマが進行した。もし私がそれに巻き込まれていなかったなら、もしわれとわが身をそれに投じていなかったら、人間を信頼する力をまったく失っていただろう。戦争という燃える火の両側から信頼の手をさしのべ、かたく握り合うというあの体験がなかったら、私は科学を棄てていたかもしれない」。
第6回に続く

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