生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

書籍関連・映画のご紹介

コロンボ空襲

 インド洋にわずかに残存する英艦船を求めて、1942年(昭和17年)4月5日、6隻の航空母艦を中核とする日本海軍機動艦隊が英領スリランカのコロンボ港を攻撃した。その際、付近を航行中の重巡ドーセットシャーとコーンウォールを発見、艦載機による急降下爆撃で撃沈した。この時、ドーセットシャーに乗艦していて亡くなった士官は、ケンブリッジ大学化学科出身のジョン・ケンドリュ−(1943年当時26歳前後)の友人だった。ケンドリュ−が付き添いを務めた式で、この海軍士官は新婦エリザベスと結婚していたが、戦後の1948年(昭和23年)、この未亡人とケンドリュ−は結婚する事になる。

 すでに1940年(昭和15年)から、ケンドリュ−はレーダーを小型化して航空機に搭載する軍事研究に携わっていた。同年夏、ドイツ軍がフランスを席捲し、足場を失った英・大陸派遣軍はダンケルクから敗走した。英国を守るのは、戦闘機部隊とワトソン=ワット達が開発したレーダー網。真珠湾やミッドウェー攻撃で航空戦を指揮する事になる源田実は、駐英海軍武官として、このバトル・オブ・ブリテンを体験した。英・大陸派遣軍は数セットのレーダーをフランスに残し、その一つは無傷でドイツの手に落ちていた。だから、開戦の頃には日本軍もレーダーの有効性を理解していた。

→1942年(昭和17年)4月、コロンボ付近で日本海軍により攻撃を受けた英重巡ドーセットシャー(写真左)とコーンウォール(写真右)。この時、艦爆隊は8割以上の命中率をあげたとされる。

 1942年(昭和17年)2月にシンガポールが陥落した時、日本陸軍は英軍基地のゴミ箱の中にレーダー関連書類を発見して狂喜した。ゴミの持ち主ニューマンを捕虜の中に特定し、尋問したが、Yagi arrayの発音すら知らなかった。あきれたニューマンは、「日本人のくせに、“八木”も知らないのか。」UHF受信機(八木アンテナ)に関する1928年(昭和3年)の八木の特許は、1941年(昭和16年)に期限が切れたが、延長をめぐる国内の訴えすら「重要な発明とは認められない」と却下された。しかしシンガポール要塞のレーダー受信機は八木アンテナだったのである。

↑八木アンテナを掲げる晩年の八木秀次(左)と、八木アンテナを使った英軍シンガポール要塞のレーダーに関する日本陸軍の「ニューマン文書」(右)。1925年(大正14年)、東北大学工学部長だった八木秀次は超短波を受信する「指向性アンテナ」を開発し、その特許を得た。各国はレーダーの開発に八木の指向性アンテナを応用しようとしたが、日本がその重要性に気付くのは、シンガポールを攻略し、英軍が実際にこれを使う現場を見てからだった。ゴミ箱の中にレーダー関係らしい資料を見つけた陸軍は狂喜し、これを捨てたニューマンを尋問したが、Yagiの発音すら知らず、あきれられた。この時の資料と尋問の記録をまとめたものが「ニューマン文書」(東北大学所有)。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ