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生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

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生命とは何か

 戦争中に湯川が書いた随筆を集めた『目に見えないもの』は、戦争が起こっている現実を全く感じさせない、実に不思議な著作集である。この中で1943年(昭和18年)に湯川は書いている。「生物体は新陳代謝を行って、絶えず外界との間で物質を交換している。したがって、“猫”の身体といっても、どこまでをとってよいか分からない」。前半は戦前にボーアが言ったことの繰り返し、後半で“猫”を例にとったのは、粒子の世界とマクロな世界を対比してコペンハーゲン解釈に反論しようとした、シュレーディンガーの議論を意識したためだろう。

 この頃、シュレーディンガー(1943年当時56歳)は亡命先のダブリンにいた。1943年(昭和18年)に行った講演をもとに、1944年(昭和19年)、シュレーディンガーは著書『生命とは何か』をケンブリッジ大学出版局から出版した。『生命とは何か』の冒頭は、「生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象は、物理学と化学によってどのように説明されるのか?」生命の世界と物理の世界を区別する不思議な境界に、シュレーディンガーも疑問を感じていた。

 『生命とは何か』の中で、シュレーディンガーは生命がエントロピーを排除する事によって成り立っている事を要約した。エントロピーとは乱雑さの程度。コーヒーとミルクがまざるとミルクコーヒーになるがミルクコーヒーは簡単にはコーヒーとミルクに分離しない。ここでミルクコーヒーはミルクとコーヒーが分離した状態よりも乱雑である。しかし、エントロピーが必ず増大するのは閉じた系(宇宙全体)だけで、物質やエネルギーを外界とやり取りする開放系(部分)では必ずしもエントロピーは増大しない。草を食べて子牛が親牛になったとする。この時、牛は「成長」していて、牛だけを見る限りエントロピーは下がっている。しかし草が分解されたことによってエントロピーは上昇している。両方をあわせれば、結局、エントロピーは増大しているのである。だからこそ、アフリカの飢餓を救うために肉食をやめて穀物を食べようという運動が成立する。生命とは、全宇宙のエントロピー増大を加速するための触媒のようなものである。シュレーディンガーの生命観は、全く独創的というわけではなく、ウィーン大学時代の先生のボルツマンやマッハの生命観を正統的に継承したものだった。

 『生命とは何か』の中で、シュレーディンガーはベルリンで知り合いだった、マックス・デルブリュックの論文を引用し、光(X線)との相互作用から導きだされた「遺伝子は大型の分子に違いない」という結論に触れていた。

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