生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

書籍関連・映画のご紹介

ボーゼイの領主館

 レーダーを語るとき、全世界に拡がった八木アンテナの事を日本人は言うだろうし、米国人はそもそもレーダーという名称が米海軍の発案である事を主張するだろう。本当の技術的な根源はドイツにあった。しかし、個々の技術を総合しシステムとして実用的に運用する組織力の点で、英国に勝る国はなかった。オペレーションズ・リサーチという言葉すら、自分たちの研究を要約する中でワトソン=ワットが発明したとされる。

 1935年(昭和10年)に空軍に依頼された初実験に成功後、ワトソン=ワット(1943年当時51歳前後)の研究チームは1936年(昭和11年)サフォーク州ボーゼイに移った。海を越えてヨーロッパ大陸を望見する領主館には、桃園やブ−ゲンビリアの大樹があった。南東アングリアに展開する英空軍施設やケンブリッジ大学に比較的近く、キャベンディッシュ研究所のハートレー(1943年当時46歳前後)やオリファント達が頻繁に出入りした。ボーゼイのスローガンは「次善のものを今すぐ」。

 1935年当時のレーダーは波長数メートルの電波を使用、基地の固定式アンテナは高さも幅も100メートル以上あった。艦船や航空機に搭載するためには、小型アンテナの開発とともに、使用する波長をより短くする必要があった。発信器として当初、オランダ、フィリップス社製のマグネトロンが使われていたが、1940年(昭和15年)、マイクロ波(波長が数センチメートル)用の空洞型マグネトロンがバーミンガム大学で開発された。開発したのはブートとランダル、英国海軍の依頼による。プリンス・オブ・ウェールズのレーダーはこうやって開発されたものだったのである。

 戦後、ランダルはロンドン大学キングズ校に移り、DNAのX線回折を研究するモーリス・ウィルキンスやロザリンド・フランクリンの上司になる。ウィルキンス自身(1943年当時27歳前後)は、マンチェスターに移ったオリファントやランダルのもとでレーダースクリーンを開発していた。ウィルキンスとともに1962年(昭和37年)ノーベル医学・生理学賞を受賞するフランシス・クリック(やはり27歳前後)は、海軍で磁気機雷の研究に従事していた。

 後にケンドリューの学生となり、そして、ケンドリュー夫人エリザベスと恋におちるヒュー・ハクスリー(1943年当時19歳前後)も、航空機搭載レーダーの研究に従事。もう一人、レーダーを研究したのが、アラン・ホジキン(28歳前後)。ケンブリッジ大学・生理学教室で後輩のアンドリュー・ハクスリーと神経伝達を研究していたホジキンは、エイドリアン教授のはからいで復学。アンドリュー・ハクスリー(26歳前後)の方は海軍で対空砲制御の研究に従事した。二人が考えた神経興奮を説明する回路図に対応する分子が実在することを京都大学の沼正作らが解明するのは何十年も後の事になるが、世界の生理学者達の確信は強く、1963年(昭和38年)に二人はノーベル医学・生理学賞を受賞した。

 1944年(昭和19年)に八木アンテナが海軍の双発機「月光」に搭載された頃には、米英のレーダーの波長はさらに短くなり、アンテナもパラボラ型に変わっていた。後に朝永は言う。「日本が空襲警報に使っていた電波探知器は“何かが来る”くらいの精度。しかし連合軍のレーダーは、反射を精密に受けてその時間差を地図上に示し、飛行機1機ずつを識別する精度をもっていた。日本は波長を十分短くできず、こういうものはついに完成しなかった」。

→1935年(昭和10年)168エーカーの土地ごとボーゼイの領主館は英国空軍によって買い取られ、1936年(昭和11年)、レーダーの開発拠点として、ワトソン=ワットの監督下に置かれた。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ