生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

書籍関連・映画のご紹介

戦時下の素粒子論

 東京の理化学研究所では、ドイツから帰国した朝永振一郎(1943年当時37歳前後)や渡辺慧(33歳前後)に、大阪から坂田昌一(32歳前後)や武谷三男(32歳前後)が加わって、仁科グループの討論が絶頂期を迎えていた。朝永は言う。「坂田さんが“アンダーソン粒子と湯川中間子は違う”と言い出してメソン会というのができた。渡辺さんがいろんなアイデアを出すんだけれど、武谷さんがいちいちまぜかえす。渡辺さんが、ついに“ちょっと黙っててくれ”と言って口を押さえたら、仁科さんが“暴力はいかんよ”と言って、みんな大笑い」。武谷は1938年(昭和13年)に大阪大学の無給助手になったが、マルキストだったため警察に検挙され、1941年(昭和16年)から仁科研究室に参加した。坂田達の努力で、宇宙線にふくまれるμ中間子と、強い相互作用を担うπ中間子(坂田は中性中間子と呼んだ、これが本来の湯川粒子)が正しく区別されるようになるのは、戦後の1946年(昭和21年)ごろの事であるが、仁科達の実験やオッペンハイマーやアンダーソンらの研究により、ともかく中間子のようなものが存在するらしいという事は徐々に受け入れられていった。坂田と武谷が、東京の朝永、京都の湯川と並ぶ第三の素粒子論グループを名古屋に形成するのは戦後の事である。多くの物理学者が「オッカムの剃刀」の伝統を堅持して素粒子の数を増やすのを躊躇する中で、武谷や坂田は独自の哲学から「素粒子の数は無限である」と主張し、物理学者達の心理的抵抗感を軽くした。

 1940年(昭和15年)から湯川秀樹(33歳前後)は東京の理研・仁科研究室に参加、1942年度(昭和17年)には仁科の後任として東大教授を兼任した。東大第二工学部助教授になっていた渡辺や理学部物理学科の小谷正雄(37歳)、小平邦彦(28歳、1954年に日本人初のフィールズ賞を受賞)らの運動の結果だったとされる。しかし戦時下の東京への出張はだんだん困難になり、併任は二年間しか続かなかった。1943年(昭和18年)、湯川は、文化勲章を受章。東大の学生だった江崎玲於奈は1944年(昭和19年)10月、上級生向けの「原子核概論」を覗き、防空頭巾を片手に講義する湯川を見た。一方、朝永は1941年(昭和16年)、東京文理科大学の教授になり、1944年(昭和19年)から東京大学講師を兼任した。そして1943年12月、ついに東京の“大サイクロトロン”が完成した。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ