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生命情報科学の源流

第5回 1942-1943年:戦時下の生命論

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深海の密使

 1943年(昭和18年)11月、ケープタウンの南西で、西へとむかうグリップスホルム号を日本海軍の伊8潜水艦が発見した。グリップスホルム号は、第二次日米交換船としてインドのポルトガル領ゴアで帝亜丸と合流、その後、米国へと帰還者を運んでいた。ケープタウン沖をもって日独は作戦海域を分けていて、南「西」という事はドイツ側作戦海域に位置する。実は、伊8はドイツ占領下のフランス北岸ブレストへと派遣された後、重水やレーダー、爆撃照準機を搭載して、シンガポールへの帰途についていたのである。

 これ以前の1942年(昭和17年)にも、伊32潜がフランスのロリアン港を訪問していた。喜望峰を西へと越える直前、日本潜水艦隊はマダガスカル島ディエゴスアレス港を攻撃、特殊潜航艇が港内に進入した。魚雷攻撃により英戦艦ロイヤルティは沈没、大破したラミリースは対岸、アフリカ大陸のダーバン港へと逃れた。

 1943年(昭和18年)4月、マダガスカル島の沖合いで、ドイツから来たU180と伊29潜が会合、インドの英雄チャンドラ・ボースが伊29潜へと乗り移った。ガンジーが二度の大戦への協力との引き換えに英国から独立しようとしたのに対して、ボースは対英協力をあくまでも拒否、欧州へ逃れて枢軸側にコンタクトした。北アフリカでドイツ側捕虜となったインド兵を集めて形ばかりの部隊を編成したが、米軍の北アフリカ上陸でドイツは欧州へと撤退した。今度はシンガポールで日本側に降伏したインド兵を組織しようと、ボースは“昭南島”へ向かったのである。

 大量生産に適した通商破壊用の小型Uボートと、艦隊決戦時に戦艦部隊に随伴するよう航空機まで搭載した大型の伊号潜水艦は、同じ種類の船には見えなかった。ドイツは、寄港した日本潜水艦を“巡洋”潜水艦としてはなばなしく宣伝したが、対照的に、日本へとむかったUボートの動きはほとんど記録が残されていない。ペナンに置かれたUボート作戦基地以外にも、シンガポール、バタビア、そして神戸にまで修理基地が置かれていた事実から考えて、かなりの数のUボートが活躍した事が想像される。

↑1943年(昭和18年)4月、日本占領下のシンガポールへと渡航するチャンドラ・ボースを乗せた伊29潜上では、ボースへの余興に零式水上偵察機の発射を見せた。

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