生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

書籍関連・映画のご紹介

ステントとデルブリュックとの出会い

 ステントはシカゴの姉夫婦のところに身を寄せながら、早くも1942年(昭和17年)に高校を卒業し、イリノイ大学工学部に入学した(19歳前後)。「君は工学より科学にむいているよ」との若い助教授の勧めで、化学工学に代わって物理化学を勉強することになる。化学熱力学の講義には魅了された。合成ゴム研究の戦時プログラムを手伝い、結局、関連研究で1948年(昭和23年)夏、博士号を取得した。卒業に必要な人文系の単位をとるために参加した哲学コースのダーウィンに関する講義で、はじめて“遺伝子”という言葉を聞いたのである。

 転機は、シュレーディンガーの『生命とは何か?』を読んだ事からはじまった。きっかけはパーティーの席上で起こった“生命現象への熱力学の応用可能性”をめぐる議論。この時、ステントは生物学を何も知らなかった。「そんなに興味があるんだったらシュレーディンガーの『生命とは何か?』を読んでみたらどうだ。今、大学の本屋に積んであるよ」。読み始めたステントは止まらなくなった。「なんとかして生命現象に隠された“新しい物理法則”をみつけたい!」。1946年(昭和21年)11月から翌年4月まで、ステント(23歳前後)はFIAT(ドイツ占領米軍・移動調査局)の一員としてドイツに駐留し、アメリカ企業が利用できそうなドイツの戦時開発技術の“発掘”に当たった。この時、彼がアメリカから持っていった本はシュレーディンガーの著書だけだったという。

 この本からデルブリュックの名前を知り、帰国後、彼がナッシュビルにいることがわかった。南部についてのステントの印象はよくなかったが、デルブリュックがパサデナに移った事から「学位をとったらカリフォルニアに行こう!」。「私の専攻は高分子の物理化学ですが、最近、生物物理学に興味を持ちました」とデルブリュックに手紙を書いたが、「来たかったら自分でフェローシップをとりなさい」。応募したフェローシップの審査では「新分野に関する君の知識は皆無、これは学部生用のフェローシップではないんだよ」。それでも合格したのは、カリフォルニア工大のビードルのおかげだったと晩年のステントは推測する。もともとカリフォルニア工大へのデルブリュックの赴任は、大半の教授達の反対を押し切ってビードルが強行した決断だった。世間的にみれば、デルブリュック自身はカリフォルニア工大でたいした業績をあげていないとも言える。「“無知のあほうでも一人ぐらい協力者がいたほうがスタートの助けになる”とビードルは考えたんだろう」とステント。

 1948年(昭和23年)5月、ルリアに会いにイリノイに来たデルブリュックにステントは対面した。場所はデルブリュックの友人の大学教授宅。昼食をとりながらドイツ語での会話がはずんだ。居合わせたのはみな昔のベルリンをよく知る者ばかりだったから、FIATの一員として戦後のベルリンを訪れていたステントの話に皆が聞き入った。逆に、量子力学の建設者たちを個人的に知っているデルブリュックの話はステントを魅了した。マックス・プランクが隣人で、その庭からチェリーを失敬した子ども時代の話。ボーアがハイゼンベルクをコペンハーゲン郊外の田舎家に連れて行った時、ドアに馬蹄がかけてあるのを見たハイゼンベルクが「よりによってあなたがそんな迷信(馬蹄は魔よけで幸運を呼ぶ)を信じるとはねえ」と言ったら、ボーアは「いやねえ、迷信の中にはそれを信じない者にも効果があるものがあるって聞いたもんだから」。

 いよいよ研究の話になった時、ステントはシュレーディンガーの著書以外には生物学を全く知らないことに気付かれると観念したが、「ファージとは何ですか?」と聞いたステントにデルブリュックは「今は知らなくていい。この夏、君はコールド・スプリング・ハーバーでファージの講習会に参加する。秋には皆でパサデナへ向かおう」。

1951年(昭和26年)、コペンハーゲンで開かれた国際小児麻痺会議に参加するためにやって来たデルブリュック(右から3人目)を歓迎するステント(左端)とワトソン(右端)。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ