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生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

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ステントのドイツ脱出

 1923年(大正12年)、ドイツで生まれた時、ガンサー・ステントはギュンター・シュテンチだった。ナチス支配下のベルリンで自分がユダヤ人であることを嫌悪し、“アーリア人”に近づこうとして国家主義的なユダヤ少年団に入団したりした。1938年(昭和13年)11月10日、ドイツ中で組織的なユダヤ人排撃が行われ、シナゴーグは放火され、ユダヤ人商店は扇動された群集に破壊、略奪された。警察は、群集をとりしまるどころか多くの商店主を逮捕した(クリスタル・ナイト)。その直前、商売で父が好意をかけたベルリン警察の男から「2~3日、姿を隠して事務所には近づかない方が良い」との電話。知り合いのところに隠れた父に自転車で衣服を届ける途中、ステント少年は破壊の現場を目撃する。

 一家はドイツ脱出を決意。まず、父がアムステルダム行きの列車に乗った。パスポートにJスタンプ(ユダヤ人であることを示す)が押されている者はオランダ国境で下ろされ国境警備隊の取り調べを受けた。金品は没収されたが、お尋ね者リストに載っていない者は夜汽車でアムステルダムへと向かう事を許された。父はアムステルダムでオランダの顧客からいくらかのお金を回収し、渡英ビザを取得してロンドンへ。

 次はステントと義母が国境を越える番だった。逃亡を手助けする男に金を払い、夜汽車でアーヘン駅に到着、しかし男は現れなかった。結局、14歳のステント少年がタクシーに乗って男の村へと向かった。飲食店の前でタクシーをとめて、家をたずねたら、「ああ、その人なら、昨日、警察に逮捕されたよ。家にはまだ警官達がうようよいる」。二人はケルンまでもどり、駅近くの安宿からベルリンの親戚に連絡をとり、親戚がケルンの別の“ガイド”を見つけてくれた。12月31日、約束どおりやってきたタクシーには既に何人かの“ツアー客”が乗っていた。

1938年(昭和13年)11月10日は、ドイツに住むユダヤ人にとって、悪夢の1日となった。ユダヤ人経営の店舗がことごとく破壊された。飛び散ったガラスの破片が水晶のようにキラキラと光って見えたことから、クリスタルナイトと呼ばれた。

 このタクシーは国境内の農家までで、夜9時に別のタクシーがベルギーから来て、雪が降るアルデンヌの森へと向かった。しかし、タクシーが止まったのはドイツ国境警備隊の小屋の前。身分証明書を示すようもとめられたステント少年がスポーツクラブの会員証を渡すと「パスポートなしに出国するのが違法なことを知らんのか」「義母と私はロンドンの父のところへ向かう途中です」「それでは牢屋行きだな」。しかし金品没収のための身体検査の後、意外にも全員が釈放されると、外には先のタクシーが待っていた。国境警察と“ガイド”はグルで、国境警察はお尋ね者以外を見逃して金を稼いでいたのである。“ツアー客”達は2時間、雪が降る森をぬけて歩かねばならなかった。ベルギーの農家についたのは1月1日。朝食の後、迎えに来たタクシーで二人はアントワープのユダヤ難民救済センターへと向かった。4月に滞英ビザが下りると英ハーウィッチ港に到着、ロンドンの父親に合流した。1940年(昭和15年)1月に滞米ビザが下り、2月、ステント少年は両親と別れて、リバプール港から3等客として蒸気船に乗り込んだのである。

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