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生命情報科学の源流

第4回 1941年、鋼鉄の伝説

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ゴム弾性

 マレーに上陸した日本軍の最大の目的は、ゴムの確保。ゴムは、戦争遂行に必須の戦略物資だった。ゴムがなければ、タイヤ、ホース、ベルトが生産できず、トラック、戦車、航空機、いずれも動かない。日本軍のマレー半島占領により、1943年(昭和18年)には、米国の天然ゴム備蓄量はゼロになった。しかし、米国は1940年(昭和15年)から合成ゴム開発の国家プロジェクトを編成していて、1945年(昭和20年)には、82万トンを合成する能力を持つに至っていた。ゴム生産地から遠く離れたドイツでも、代参品の開発は至上命令だった。1935年(昭和10年)のナチス党大会で、ヒトラーは、合成ゴム開発の成功を高らかに宣言している。
そのくせ、開戦後も小型船舶やUボートを使って、日本占領下のマレーから欧州へと天然ゴムを送り続けた。

 1930年頃から、デュポン社のウォレス・カロザースが人工高分子を研究していた。1920年(大正9年)にドイツのシュタウディンガーが「高分子は通常の化学結合で形成される長鎖状の巨大分子」と主張したが、受け入れられなかった。この説を信じたカロザースは、エミール・フィッシャーの樹立した記録、分子量4200を超える巨大分子を合成しようと努力する。1930年(昭和5年)、チームの一員がポリクロロプレンのゴム弾性を発見し、これがきっかけとなって、合成ゴム、デュプレン(後、ネオプレン、1936年)の合成に成功する。1935年(昭和10年)、別のメンバーが優秀な合成繊維の試作に成功。原料のヘキサメチレンジアミンとアジピン酸がともに炭素を6個持つ事からポリアミド6-6と命名された。ナイロンの誕生である。ナイロンは、パラシュートを初めとする戦略物資の素材として連合軍を大いに助けた。それ以前には、日本などに産する絹しかなかったのである。鬱病でアルコール依存症のカロザースは、1936年(昭和11年)に自殺した。彼の人生のハイライトは、1935年(昭和10年)、英国ケンブリッジで開催された第1回ポリマー国際会議に招かれてシュタウディンガーに会った時だっただろう。彼の心理を描く名著に井本稔『ナイロンの発見』がある。

 1939年(昭和14年)に東大物理学科に入学した久保亮五は、1942年(昭和17年)に短縮卒業し、戦時研究としてゴム弾性を研究した。熱力学と統計力学を武器として、ゴムを伸ばすとなぜ縮むのか、なぜ発熱するのかといった問題を整理し、その過程で、ゴム弾性の本質を、架橋された分子鎖内の“ミクロな”ブラウン運動と正しく結論した。ドイツの著名な高分子化学者クーンが熱運動の単位として巨大分子全体の分子量を想定していた事に疑問を感じた事がきっかけだった。

↑伊号400型潜水艦は、第二次世界大戦末期、日本が開発した巨大潜水艦。第2次大戦中の潜水艦としては世界最大で、その全長122mは、ドイツのUボートの66m、アメリカのガトー級の95mをはるかに凌ぐ。 艦内の格納庫には、主翼と尾翼が折りたたまれた状態の3機の特殊戦闘機「晴嵐」を搭載した。浮上後、格納庫から晴嵐を引き出し、主翼と尾翼を組み立て、フロートを装着し、空気圧を利用した射出機で発進させる。熟練した乗組員にかかれば、浮上してから15~16分で3機を射出できたという。

↑広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている伊号401潜水艦の模型。「晴嵐」を格納庫から搬出して飛行体勢に入るまでの3段階を再現している。

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