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生命情報科学の源流

第4回 1941年、鋼鉄の伝説

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マレー沖のZ艦隊

 日本の開戦を抑止できるものが三つあると米英側は考えていた。その一つ、ハワイの米・太平洋艦隊は、1941年(昭和16年)12月、開戦一日めに、日本海軍の空母艦載機の攻撃により壊滅した。その十時間後、台湾南部を発進した陸上攻撃機の爆撃により、フィリピンの米陸軍・爆撃機隊は飛び立つ事もなく飛行場で壊滅した。残るは、シンガポールに着いたばかりの英Z艦隊である。新鋭“不沈”の、超弩級(スーパー・ドレッドノート)戦艦プリンス・オブ・ウエールズと、やや旧式の巡洋戦艦レパルスが、日本陸軍が上陸を開始したマレー半島北部へと出撃した。主だった日本海軍艦船は真珠湾に出払っていて、この海域には、旧式の「金剛」型・巡洋戦艦二隻しかいなかった。

 12月9日、警戒線を敷いていた潜水艦隊の一隻、伊65が二隻の英戦艦を発見、仏領インドシナに展開中の日本海軍の3航空隊の陸上攻撃機が迎撃に向かった。プリンス・オブ・ウエールズが装備する最新式のレーダーは、これら航空機を正確に捉えたが、友軍機の援護はなく、魚雷攻撃をうけた二隻の巨艦はなすすべもなく水没した。この時、攻撃に参加した航空兵達は、当初、二隻を友軍の「金剛」型と見間違えた。無理もない。「金剛」は、英国ヴィッカース社製だったのである。

 日露戦争の頃まで、日本は主力艦を建造する技術力を持たなかった。東郷提督の旗艦「三笠」も英国製だった。だから、戦争が近づくたびに、日本政府は欧州各国からの戦艦の購入に走った。あるいは、南米諸国が保有する艦を二次的に購入した。日清戦争の黄海海戦などは、日本海軍の英仏製戦艦と中国海軍の独戦艦との性能比べの様相を呈した。サントリーやニッカの本当の有り難さは平成の私達にはわからない。“1号機輸入、2号機国産”のスローガンを忠実に守ってきたから、戦艦「大和」は完成した。そして、“3号機輸出”のスローガンは戦後の日本を創ったのである。

 戦艦の購入をめぐって、奇奇怪怪な事件もおこっている。支払いのために英国に派遣された海軍将校が、戦艦一隻の費用とともに行方不明になった。実は、政治家の資金捻出の犠牲になったと疑われている。日清戦争の直前には、フランスから回航途中の戦艦「畝傍」が、シンガポール出港後、消息を絶った。真相は未だに不明、多くの小説家の想像を刺激した。大正時代に建造された「金剛」は、海外へ発注した最後の艦で、ヴィッカース社が「金剛」建造後、同じ設計図をもとに国内で同型艦三隻が建造された。英国政府の求めにより、これら四隻は、第一次世界大戦中、英海軍の指揮下に入り、インド洋から地中海におよぶ通商路をドイツ海軍の通商破壊艦エムデンから守った。ただし、日英の関係は対等ではなく、その後の両国不和の一因になったともいわれる。

→1941年(昭和16年)12月2日、シンガポールのセレター港に到着した戦艦プリンス・オブ・ウェールズ。同月8日、日本軍がマレー半島北端に上陸との報を受け、レパルスとともに上陸部隊を迎え撃つが、10日、マレー半島東方沖で日本海軍の航空部隊により撃沈される。

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