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生命情報科学の源流

第4回 1941年、鋼鉄の伝説

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戦艦「大和」の射撃盤

 上下左右に揺れながら高速で移動する戦艦が同様に運動する敵艦をねらって砲撃する事は、ピストルを片手に標的をねらうのとは全くわけが違う。精密な計測と共に、複雑な計算が必要。大和クラスの主砲ともなると、地球の自転まで考慮する必要があった。弾道を計算し主砲を制御する“射撃盤”は、一種のコンピュータ。機械式関数計算機構と電気式計算回路を組み合わせたもので、2m×2.5m×1mの箱だった。1925年(大正14年)に陸軍の多田禮吉がアナログの電気式計算機を開発していたが、これは、米国の二企業による開発とほぼ同時だった。一説では、日本の機械加工技術の信頼性が低かったため、多田は電気式を模索したといわれる。しかし、日本光学工業(現ニコン)の更田正彦は、潮しぶきが飛ぶ海上での電気式の使用をあきらめ、機械式の94式高射・射撃盤を開発した。これ以外にも、プリズムを使ってベクトル計算を行う光学式計算機まで開発されていた(98式測的盤)。当時、更田は、米国のバニバー・ブッシュが作った微分解析機を知らなかったという。

 MITのブッシュは、微分方程式を解くために、1931年(昭和6年)に機械式の微分解析機を開発した。その中核にケルビン積分器がある。これに興味を持ったケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のダグラス・ハートリーは、メカーノ(ブロック式工作玩具の元祖)の金属製部品を使って試作機を作った。やがて、量子力学の近似計算に2号機が活躍する。エッカートとモークリーが米陸軍のために微分解析機を作り弾道計算に応用、これが真空管式計算機ENIACの開発へと発展する。二万本もの真空管を持つENIACは、スマートなできばえとは言い難かった。それでも「本物の砲弾よりも速く計算できる」ことが、語り草になる。これが、1945年(昭和20年)のフォン・ノイマン・レポート(プログラム可能なEDVACコンピュータの構想を議論する)を生み、このレポートに基づいてハートリーが中心となってケンブリッジ大学でEDSACコンピュータが開発される。

 戦後にEDSACが果たした成果の一つは、世界初の蛋白質立体構造の計算、すなわち生命科学への応用だった。フォン・ノイマンは、1943年(昭和18年)に英国・航海暦編纂所で初めてプログラムを体験し、さらにロスアラモスで原子爆弾の爆風効果の予測に取り組む中で、風洞の代わりを数学的に務める計算機の開発を夢見るようになった。一方、ブッシュは、国防会議・議長の要職に就き、その報告書をもとにマンハッタン計画がスタートした。戦後もブッシュは科学行政に大きな発言力を持ち続け、新生日本の科学政策もその影響下にスタートする事になる。

→1941年(昭和16年)9月、呉工廠で完成間近の戦艦大和。射撃盤で弾道計算するためには、測距儀で敵との距離を正確に測らなければならない。大和では、基線長(人の右目と左目の間隔に相当。これが長いほど正確)15mの測距儀を98式射撃盤に連動することにより、9門の主砲をコントロールした。主砲や副砲ごとに、あるいは同一の目標に、照準することができた。

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