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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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量子力学と時の矢

 ドイツとむすんだソ連までがポーランドへと侵攻する中、リトアニア領事代理、杉原干畝が、移動する間も書き続けユダヤ人達に投げあたえたのは、アメリカに渡るための日本通過ビザだった。大西洋が危険地域になると、タウトが往復したシベリア鉄道だけが、日本経由でアメリカへと脱出する唯一のルートとして残された。ユダヤ系、非ユダヤ系を問わず、学者や文化人、多数がこのルートを通ってアメリカへと逃れていった。その一人は1940年(昭和15年)、横浜からアインシュタインが待つプリンストンをめざした数学者、世紀の奇人クルト・ゲーデルだった。

 量子力学には、「時の矢(過去から未来へと一方向にむく時間の流れ)」は一見あらわには表現されていない。しかし渡辺慧によれば、コペンハーゲン解釈により、必然的に「時の矢」は、観測者、つまり人間固有の世界認識の問題に帰せられるという。「量子論で時間の観点から不可逆なのは観測の過程だけである。だから観測の過程を通じて、熱力学第二法則(時の矢)が量子論でも説明される。そもそも観測とは、認識せんとする主体が認識される自然に働きかける操作であり、観測に向きが生じるのは(たとえば波から粒子への収束)、その主体の行う操作に順序があるからにほかならない。量子論は観測の前より後のほうがエントロピーが増大することを主張するが、そこでいう前とか後とかは“時間的な”前後を意味するのではなく、“認識の順序”における前後に他ならない」。つまり、時間は客観的に流れているのではなく、人間がそう認識しているだけなのだと言うのである。この考え方をさらに発展させて、戦中から戦後にかけて、渡辺は独自の生命論を構築していく。

 1941年(昭和16年)の日米開戦に続いてドイツが米国に宣戦を布告すると、デルブリュックはドイツへ帰国するチャンスを失い、米国で大腸菌とこれに寄生するウイルス、ファージを使った実験を展開する。デルブリュックを中心とするサークルの中から、後に分子生物学とよばれる分野とこれを研究する若者達が育っていった。ボーアの“コペンハーゲン・スピリット”は米国へと受け継がれたのである。一方、日本でもボーアの教えを信じる仁科達がレソフスキー達の実験を検証、発展させようとしていた。

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