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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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ベルリンの“神々の黄昏”

 ユダヤ人公職追放法は、ヒトラーが政権をとった直後の1933年(昭和8年)4月に早くも制定されていた。反ナチス的な発言からシュレーディンガーは“白いユダヤ人”としてハイゼンベルク以上の排撃を受け、1936年(昭和11年)オーストリアのグラーツ大学へ逃れた。オーストリアが1938年(昭和13年)にドイツに併合されると、イタリア、英国経由でアイルランドに亡命した。不器用なデルブリュックもまた、ナチスににらまれて教授職に就けない状況にいた。ユダヤ系ながらオーストリア国籍をもつマイトナーは何とか数年間ベルリンに留まったが、やはりオーストリア併合の際、計画済の実験を目前にストックホルムへ逃れる。ハーンたちは実験を続行し、核分裂を発見した。その報告の入った封筒を持ってハーンは1日中ベルリンの町を徘徊、意を決してポストに投函し、底でカチリと音がなったとき“これで私の人生は決まった、大発見者になるか、笑い者になるか”。結局、ハーンだけがノーベル賞を受賞したことから、男性中心の科学者社会の中の被害者ユダヤ人女性として、マイトナーをロザリンド・フランクリンと比較する人もいる。実験の直前にデルブリュックも米国に移っていた。いよいよ本格的に生命を研究するためである。だからハーンらの歴史的な実験に立ち会えなかったことも「後悔していない」。

 やはりユダヤ系のアーウィン・シャルガフは、1930年(昭和5年)ベルリン大学微生物学科の助手になり、微生物を対象に脂質化学の研究を展開しようとした。1932年(昭和7年)パリでのリューベック裁判(複数のユダヤ人医師が子どもに病原菌を投与したとする冤罪事件)に専門家として出廷した後、1934年(昭和9年)に米国へ移住。コロンビア大学での抗体に関する研究中にDNAを調製した。このDNAがやがて戦後、英国のモーリス・ウィルキンスの手にわたる。

 大脱出の後に残ったのは、あくまでナチスに反抗するマックス・ラウエ(X線による回折現象の発見により1914年ノーベル賞受賞)、より消極的に抵抗するハーンやプランク、そして、1941年(昭和6年)ベルリン大学教授そしてカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所・所長となり、やがて独側の原爆開発の責任者となるハイゼンベルクだった。

→1913年(大正2年)、第一次世界大戦直前のベルリンに新設されたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所でのリーゼ・マイトナー(写真左)とオットー・ハーン。

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