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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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相補性

 光や電子が「粒子であると同時に波である」とする事は明らかに論理的に矛盾している。この矛盾を解消しようとしてハイゼンベルクやボーアが結論したのが、コペンハーゲン解釈である。その時、仁科もまたコペンハーゲンにいた。語学にすぐれた仁科は、1928年(昭和3年)に、相補性に関するボーアの議論(原文はドイツ語)の英訳を手伝った他、前1927年(昭和2年)、ボーアが人前ではじめて相補性を議論したイタリア、コモ湖の会議にも参加していた。しかしこの会議にアインシュタインの姿はなかった。ヴォルタ没後100年を記念して開催されたこの会議は、1922年(大正11年)に誕生していたムッソリーニのファシスト政権に国威発揚の場として利用され、これをアインシュタインが嫌ったためとも言われる。

 コペンハーゲン解釈の中核に、「粒子の世界の現象は、完全に決定論的ではない」という主張がある。ニュートン力学では、ある瞬間の質点の位置と速度が分かり、これをとりまく状況(場)が分かれば、将来の質点の位置と速度を正確に予想する事ができる。しかしコペンハーゲン解釈によれば、「粒子」の位置や速度は確率的にしか記述できず、その存在は波のように拡がっている。これは何かが不完全なためではなく、「確率的である」という事こそが本質なのだという。こんな波に、観測者、すなわち人間が手を触れたとたんに、一つの粒子に「収束」すると言うのだ。

 ハイゼンベルクはこの議論を不確定性原理と呼んだが、ボーア自身のバージョンが“相補性”だった。“粒子と波”“位置と速度”といった互いに排除的な概念は、同時に互いに補完的でもあり、どちらかが欠けると完全な記述が成り立たないとボーアは考えた。通常の言葉を使って人間が記述できる限界を越えた現象と言ってもよい。ボーアがアインシュタインの前で初めてコペンハーゲン解釈を議論したのは1927年(昭和2年)、ブリュッセルでのソルベイ会議でのことだった。かつて相対性理論を提案して古典物理学の世界観を変えたアインシュタインこそ、コペンハーゲン解釈が持つもう一つの革命性を理解する人としてふさわしかったかもしれない。ボーアに至っては「相補性は相対性と同列にみなされるべき概念」とまで述べていた。しかし、ハイゼンベルク達の期待はみごとに打ちくだかれ、アインシュタインは「量子力学は不完全だ」と晩年まで主張し続けた。後に初渡米した湯川にも「力と速度が知られていて加速度という概念が古典力学から欠けている、そんな状況に似ている」と語っいる。相補性に至っては「明確な定義を欠く議論には意味が見出せない」。

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