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生命情報科学の源流

第1回 世界を変えた第二次世界大戦

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戦時下の出会い

 殺人光線以前には、マイクロ波発振管を使ってレーダーを開発しようと日米は競った。しかしこの技術こそは、英国の御家芸だった。ワトソン=ワットらが開発したレーダー網とハリケーン、スピットファイヤの両戦闘機がドイツ軍の英国上陸を阻んだのである。航空機搭載用小型レーダーの開発に、ジョン・ケンドリュー(最初のタンパク質立体構造を決定し1962年にノーベル賞受賞、1953年の時点ではワトソンやクリックの指導教官)達学生がケンブリッジ大学から動員された。

 もっと奇抜だったのは、英・米の中間点、北大西洋上に氷でできた航空機離着陸用プラットフォームを作るというハバクク計画で、マウントバッテン卿や生物物理学者バナールが推進していた。ウィーン大学を卒業したマックス・ペルーツはキャベンディッシュ研究所でバナールから結晶学を学ぶために渡英。開戦のため、ユダヤ系だった事はおかまいなしに、敵性外国人としてカナダへ送還された。登山家だったペルーツはアルプスで氷河を研究した経験があり、バナールに救い出されてハバククに参加、プラットフォームの安定化を研究する。そこには、米国へ亡命したウィーン大学時代の恩師が米側を代表して参加していた。マウントバッテン、バナールのコンビは、この後スリランカへと移動して対日戦を指揮。そこへ空軍情報将校としてやって来たケンドリューに、バナールはペルーツらの蛋白質研究の重要性を教える。ケンドリューは、軍務で米国へ行った際、著名な物理化学者ポーリングが生物学へと転向しつつある姿を目撃した。

 ユダヤ系ロシア人のローマン・ヤコブソンは、共産主義革命後プラハへと逃れ言語学を研究していたが、ナチスドイツのチェコスロバキア併合によりデンマークへと逃亡。北欧にドイツ軍が侵攻すると、制止するドイツ兵の銃剣をかいくぐってニューヨーク行きの最終船にとびのった。米国で彼をむかえたのは、やはりフランスから逃れてきたクロード・レビ=ストロース。レビ=ストロースは、調査先のブラジルから急きょ帰国してフランス軍に入隊。フランス降伏後、ユダヤ人狩りがはじまり母国を離れた。やがてレビ=ストロースの文化人類学にヤコブソンの言語学が色濃くにじむようになり、構造主義が誕生する。後にヤコブソンはハーバード大学教授となり、そこで教えた一人はリトアニアにルーツをもつノーム・チョムスキー。1970年代、ヤコブソンはコレージュ・ド・フランスでの分子生物学者フランソワ・ジャコブの講演を聴き、「一般言語学」にDNA塩基配列を表音文字とする議論を残す事になる。

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