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生命情報科学の源流

第1回 世界を変えた第二次世界大戦

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日本海軍「勢号」計画

 第二次大戦前夜、理論物理学における米国の地位は日本と同程度、原爆開発の責任者となったオッペンハイマー以外、「理論物理学者なんていない」とヨーロッパでは思われていた。日本では、東京帝大と理化学研究所を兼務した「カミナリ親父」長岡半太郎を中心に、仁科らを輩出、さらに仁科の指導のもとに朝永振一郎や湯川秀樹の世代が育っていた。アインシュタインがノーベル賞受賞のニュースを聞いたのも、1921年、ドイツから日本へと航海する北野丸の船上だった。日本の大衆はノーベル賞受賞に先立って、アインシュタインが偉大な科学者であることを知っているレベルにあったのだ。

 戦争が始まると、東条首相の特命の下、しかしながらほそぼそと仁科達はウラン濃縮にとりくんだ。湯川達も連鎖反応に達するウラン臨界量を計算した。しかしボーアの恐怖とはうらはらに、優秀な科学者の脱出後、ドイツにおける原爆開発体制は分裂していた。米英は強力にマンハッタン計画を推進し、後にDNA立体構造の元データをワトソンやクリックに提供する事になる英国人モーリス・ウィルキンスの姿もその中にあった。

 仁科達が朝永や東大の小谷正雄(日本生物物理学会の生みの親)をもまきこんで本格的に研究していたのは、強力なマイクロ波の発振装置、米空軍パイロットを標的とした殺人光線の開発である(海軍“勢号”計画)。朝永を助けるために、戦前の留学先のハイゼンベルグから論文が潜水艦でもちこまれる。この時の研究が、後の朝永のノーベル賞を生む。“勢号”の一環として、海軍は東京帝大・水島研究室にマイクロ波の化学作用の解明を依頼、メンバーの中心に渡辺格がいた(戦後、米国へ留学した第一世代の分子生物学者。その弟子の一人が利根川進)。マイクロ波は熱発生ぐらいの効果しかなかったが(これが後に電子レンジを生む)、X線が細胞に突然変異をおこす事、その標的がリン原子を含む事(つまりDNA)を渡辺は知る。

 これに先立つ1930年代後半、仁科はロシア人研究者レソフスキーがベルリンで行った突然変異実験を追試していた。仁科らはサイクロトロンを使って中性子線やX線のショウジョウバエ突然変異への影響を調べたり、高山の山頂とトンネル内での変異率を比較して宇宙線の影響を調べた。レソフスキーはスターリン統治下のソ連邦へ戻り、そこで彼が経験した事は、ボーアの弟子だったロシア人理論物理学者ランダウの悲劇と共にもう一つの“閉ざされた”世界における別の歴史を構成する。ポパーは戦争中に“開かれた社会とその論敵達”という名論文を残したが、共産主義者だったデスモンド・バナールや訪ソしたヴィトゲンシュタインに代表されるように、学者達のソ連に対する希望と批判は様々だった。

→1929年、仁科(左端)はハイゼンベルグ(左から4番目)とディラック(右から3番目)を日本に迎えた。この二人から朝永たちの世代が量子力学を学んでいく。理化学研究所での撮影。

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