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生命情報科学の源流

第1回 世界を変えた第二次世界大戦

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マンハッタン計画

 1939年、ドイツとそれに続くソ連のポーランド侵攻をもって第二次世界大戦がはじまると、枢軸側を祖国とし、あるいは連合国側を祖国として、それぞれの側で科学者達が戦争に協力した。彼らにまじって米英側に協力した亡命科学者の多くはユダヤ系だった。

 コペンハーゲンの公園の一角につくられたボーアの理論物理学研究所こそは、かつてハイゼンベルグが量子力学の不確定性原理を完成した場所、さらに仁科がスウェーデンの物理学者クラインとともに“仁科-クラインの式”を確立した場所だった。ドイツの勝利を信じたハイゼンベルグは、占領者ドイツを代表する使節の一員として恩師ボーアに再会する。ナチス・ドイツが原子爆弾を開発している、しかもかつての弟子がこれに加担しているとうけとめたボーア(58才前後)は、まずは小型船でスウェーデンへと逃れ、そこから英空軍機の爆弾槽にかくれてスコットランドへ脱出。しかし、ロンドンで原爆開発の可能性に気づいていたレオ・シラードは、アインシュタインを通じて一早くルーズベルト大統領へ親書(ドイツよりも早く原子爆弾を開発すべきと勧告)を送っていた。

 原爆を開発するマンハッタン計画の中核には、イタリア出身のエンリコ・フェルミ(夫人がユダヤ系)やシラード、フォン・ノイマン(共にユダヤ系ハンガリー人)がいた。ずばぬけた能力ゆえに“宇宙人”とウワサされた応用数学者フォン・ノイマンは、戦前のゲッチンゲンで、大数学者ヒルベルトのためにシュレーディンガーの波動力学とハイゼンベルグの行列力学が数学的に等価である事を証明してみせた。これにより量子力学が完成。

 ベルリン大学教授だったころ、シュレーディンガーやアインシュタインは、工学から物理学へと転向しようとするシラードを知っていた。シラードはラウエ(X線の回折現象を発見)のもとで“マクスウェルの悪魔”のパラドックスを解決して情報=負エントロピーの公式を導き、博士号を得た。苦学するシラードを助けるために、アインシュタインは二人で新型冷蔵庫を開発してひともうけしようともちかける。一方、シュレーディンガーはシラードのイギリスへの亡命を助けた。イギリスでシラードが思いついたのは“連鎖して拡大する反応”、つまり原子爆弾の基本構想。こうして彼は原子爆弾のパテントをとった(ただし英国海軍の名で)。

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