生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第6回 1945年:最終秘密兵器

書籍関連・映画のご紹介

マンハッタン計画

 広島と長崎に投下された原爆はどちらもTNT火薬2万トン程度の威力だったが、前者がウラン爆弾だったのに対して、後者はプルトニウム爆弾だった。オットー・ハーン達の核分裂の報告を知って原爆開発の可能性に気づいたのはレオ・シラード。中性子がU235に衝突すると、ウランは2つに分裂し、大きなエネルギーを放出する。この際に中性子を数個放出、放出された中性子は別のウランを分裂させる事ができる。したがって一定量以上のウランを一塊にすると、核分裂が急速に進み爆発する(臨界)。シラードがこの逆の概念“負のフィードバック”を使って遺伝子制御を説明するのは、戦後の1957年(昭和32年)の事である。

 シラードからこの可能性を聞くまで、アインシュタインはE=mc2の式のそんな応用を考えてもみなかった。1921年(大正10年)、プラハでの講演後に「原子内エネルギーを使って爆発物を作った」と主張する人物が面会を求めたとき、彼は「どうか落ち着いて、そんな主張がバカげているのは明白です」。アインシュタインは間違っていた。ドイツよりも早く原子爆弾を開発すべきという、二人の勧告に基づき、ルーズベルト大統領が原爆開発を決定したのは、真珠湾攻撃の前日だった。

 米英は優秀な科学者を総動員して、またその技術力のベストを駆使して原爆開発(マンハッタン計画)を遂行した。カリフォルニアでの熱拡散方式によるU235の分離には英国チームの一員としてモーリス・ウィルキンスが参加(後のナポリでの彼の講演をジェームス・ワトソンが聞かなかったら、DNA“発見”の歴史は変わっていただろう)。その上で、気体拡散方式に切り替えた。ウラン化合物の気体を多孔質の壁を通して真空中に拡散させると、軽い成分がより早く拡散する。これを繰り返して濃縮したU235を使って広島の原爆は製造された。しかし1発分を精製するのがやっと、広島の原爆は一か八かの投下だった。

 長崎に投下された原爆にはウランの代わりにプルトニウムが使われていた。こちらは2発分作られ、1発目はニューメキシコでの爆発実験に使われた。天然に存在する元素はウランまでの92種類だが、サイクロトロン中ではウランより重い超ウラン元素が作られる。U238に中性子を照射してできるプルトニウム239にはU235同様の連鎖反応が期待できる。一旦、プルトニウムを作ってしまえば、核種が違うウランからは通常の化学技術で分離可能。日本やドイツの科学者はこれに気づかなかったのである。ただし、プルトニウム爆弾は“自然発火”しやすく、点火には爆縮型という難しい設計が必要となる(2006年秋、北朝鮮が実験に失敗した?とされる理由)。原子炉の中ではU238からプルトニウムが自然に作られる。だからこそ、インドや北朝鮮のように原子炉を持つ国はプルトニウム爆弾を、パキスタンのように持たない国はウラン爆弾を開発するのである。日本も今や世界に冠たるプルトニウム保有国で、これがプルトニウムをウランにまぜて燃やそうとするプルサーマル計画の背景となっている。

ニューメキシコ州アルバカーキの国立原子力博物館に展示されたリトル・ボーイ(左、広島型ウラン爆弾)とファット・マン(右、長崎型プルトニウム爆弾)の実物大モデル。リトル・ボーイは元々「ヤセッポチ」というニックネームで、魚雷型の本体の中を飛んできたウランの塊が、待っている別の塊にぶつかって連鎖反応を起こす仕組みになっていた。この設計ではプルトニウムは確率的に自然発火してしまうため、ファット・マンは厳重に分けられた区画を壊すために起爆剤を使った爆発波が外側から内側へと進行する(ex-plosionではなくin-plosion、爆縮型)設計だった。その設計には複雑な計算を必要とし、この時、ロス・アラモスで計算機を手にした多数や計算尺を手にしたフェルミに、フォン・ノイマンが暗算で立ち向かったとされる。設計が難しいだけでなく、同時爆破を目指した改良が必要で、これが北朝鮮が近いうちに再度、核実験をするであろうとする予想の根拠になっている。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ