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生命情報科学の源流

第6回 1945年:最終秘密兵器

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広島と長崎

 1945年(昭和20年)8月、海軍技術研究所の野田は九州、大牟田の三井化学へと向かった。艦載用電探(レーダー)のケーブルを保護するために新素材を必要とした海軍は、墜落したB29から回収したポリエチレンに注目し、敗戦間際にやっと1kg合成できるようになったのである。途中、空襲で松山が焼け、尾道に向かう船が遅れたおかげで、8月6日、野田は僅差で広島への原爆投下にあわずにすんだ。この時、寺田寅彦とともにキリンの縞模様を議論した平田森三は広島で市電に乗っていた。落とした鉛筆を拾おうとかがんだ瞬間に原爆が爆発、平田ともう一人を除く乗客全員が死亡した。

 陸軍の命を受けた仁科は、8月8日、広島に到着し、投下された新型爆弾が原子爆弾だった事を確認した。帰京した仁科は衣服についた放射能を慎重に調べた。「原爆恐れるに足りず、戦争続行」と言った訪問者に「バカ野郎」。放射線による突然変異を研究した上で広島の惨状を見た仁科は、放射能がどんな効果をもたらすか、米国の無邪気な物理学者達よりもよほど深く理解していたはずである。

 8月9日、野田は小倉で大牟田方面に向かうトラックを探していた。その上空には2発目の原爆を積んだB29が接近していた。しかし小倉上空が曇っていたために長崎へと方向転換。原爆の投下を観測した米科学者達は、長崎上空からデータ収集用の缶に仁科研の嵯峨根(東大教授として江崎を指導)にあてたメッセージを入れて投下した。彼らは、かつてローレンスの研究所で同僚だったのだ。「高名な物理学者としての影響力を行使して、この戦争を続ければ恐ろしい惨禍を受ける事を大本営に納得させてほしい」。

爆心地から約600mの場所に建っていた広島県産業奨励館は、「原爆ドーム」の名で原爆惨禍のシンボルとなった。

8月9日、長崎に投下された原爆によるキノコ雲。原子雲とも呼ばれるこの雲は、高さ1万2000m以上にまであがった。

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