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生命情報科学の源流

最終回 1953年ゴールデン・ゲート・ブリッジに舞い降りた二重らせん

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仁科の戦死

 ボーアの助けもあって、1949年(昭和24年)9月、仁科は、コペンハーゲンで開かれた国際学術会議の総会に日本代表として出席する許可をGHQから得ることができた。この時、ボーア宅に泊まったが、二人の間でどんな会話が交わされたのか、記録は残されていない。1950年(昭和25年)にはアメリカ科学アカデミーの招待により、日本学術会議代表団の副会長として渡米。この時、仁科ははじめてローレンスに会った。二人の交流はすでに20年近くも続いていたが、すべて手紙によるもので、これが初対面だったのだ。

 戦争前、1920年代から30年代にかけての米国カリフォルニアは、政治的に右翼と左翼の二極に二分裂し、極めて不安定だった。今のアメリカからは想像もできないが、カリフォルニア各地には共産党の“細胞”ができていて、オッペンハイマーも次第に大学の左翼的雰囲気に染まっていった。1933年(昭和8年)にドイツでナチスが政権を握ると、ドイツにいる親戚に始まって、知り合いのユダヤ系物理学者に至る大脱出をオッペンハイマーは助けるようになる。デビッド・ボーム以下のオッペンハイマーの学生たちは、FBIのブラックリストに載るようになった。ただし、彼自身が正式に共産党員になった事はなかったようである。

 こうして、戦争の予兆をオッペンハイマーが十分感じていたのとは対照的に、政治に疎かったローレンスは、ドイツ軍がパリに侵攻する直前まで「もう10年、戦争はおこらないだろう」と書いていた。やがてその態度は一変する。1941年(昭和16年)日米開戦の直前に仁科が東京の大サイクロトロンの完成のため使者を送ったころ、ローレンスはすでに米政府の“ウラン・プロジェクト”に参加していた。この当時の“ウラン・プロジェクト”は原子力の艦船動力としての利用から産業的応用まで含めた曖昧なもので、なによりも、ドイツを相手国と意識したものだったから、おそらく、ローレンスは仁科達に敵意をもっていたわけではなかったのだろう。サイクロトロン技術を応用することにより、U235の分離が可能となると知ったローレンスはこの目標の達成のために全力を投じるようになる。グローブス将軍にとってローレンスは自分と同じような“兵士”であり、きわめて意思の疎通が簡単な相手だった。

 1951年(昭和26年)5月、ビキニ環礁での水爆実験観測からの帰りにローレンスが東京に立ち寄った。水爆の開発に反対したオッペンハイマーとは対照的に、ローレンスは推進派に加担し、二人の関係はもはや円滑なものではなかった。かつてきわめて前途明るいと思われたオッペンハイマーは、結局ローレンスほどの成果を得る事はできず、一方、そのローレンスにも“全く物理学がわかっていない”といった批判が高まっていた。科研を訪れたローレンスは、研究室の傍らにあった小サイクロトロンの磁石を指差して「これを使うんだよ。サイクロトロンを再建しなければ」。しかしすでに1月、仁科は肝臓ガンで亡くなっていた。科研の社長として金策その他にはしりまわり、また日本学術会議の活動を通して、さらには吉田首相のブレーンとして、日本の科学の再建のために戦った仁科芳雄、60歳での“戦死”だった。だから、仁科がワトソンとクリックの発見を知る事はなかったのである。

 ビキニ環礁での水爆実験観測の際の被爆が原因で、フォン・ノイマンは1957年(昭和32年)にガンで死亡した。フォン・ノイマンは、プログラム内蔵型コンピュータの生みの親である。チューリングがプリンストンに大学院生としてやってきた1936年(昭和11年)から、チューリング・マシーンの“テープ”の概念を知っていた。だからフォン・ノイマンは、1953年以前から、人工のファージ、つまり遺伝子に似た指令に従って自己複製し、さらには進化する機械を考えていたとされる。しかし、この機械について病床で書き始めた本格的な原稿は遂に完成しなかった。

 デルブリュックと同じ年に生まれた朝永振一郎は1979年(昭和54年)に亡くなった。1975年(昭和50年)ごろ、DNAの複製やファージの増殖の仕組みを聞いた朝永(69歳前後)は、「生物学者は偉いねえ。見えないものをそこまで証明するとはねえ」。多磨霊園の仁科の立派な墓には今も朝永の小さな墓が寄り添っている。

東京・多磨霊園の仁科芳雄の墓。その右(矢印)には朝永振一郎の墓石が寄り添い、「朝永振一郎 師とともに眠る」の文字が刻まれている。

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