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生命情報科学の源流

最終回 1953年ゴールデン・ゲート・ブリッジに舞い降りた二重らせん

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敗北

 1953年(昭和28年)、バークレーで出会った渡辺とステントは、カリフォルニア大学ウイルス研究所のノウハウを動員して増殖初期の親ファージDNAの“解体”機構とその行方を追跡しようと計画した。渡辺の耳には、マルキスト、柴谷篤弘の挑戦的な言葉「複製は消滅によって引き起こされる」が反響していた。1950年(昭和25年)、柴谷がこう言いはなった時、渡辺は、心の中で「物質が消滅するはずがない。解体するだけだ」。

 渡辺が研究するウイルス研の真新しい建物は小高い丘の上に西に面して立ち、正面には、キャンパスを超えて、真紅に輝くゴールデン・ゲート・ブリッジが見えた。ステントは「科学と美を満喫できる、こんな場所は他にないよ」。この頃、日本へと帰国する野田春彦が、NIHから大陸を横断して到着、貨物船を待つ間に渡辺を訪れた。

 そして4月下旬、ワトソン達がDNAの立体構造を解明したとの大ニュースが、パサデナのデルブリュックを経由してステントに入り、ついで小型版のDNA模型が届けられた。この模型はDNAニ重らせん構造の宣伝のためにケンブリッジでたくさん作られたものの一つで、5月にワトソンがアメリカへと持ってきた。模型を見た数人は「これが本当なら遺伝情報の複製機構なんて子どもにでも分かる」。渡辺は、モデルの正しさを即座に確信した。雲ひとつ無い青空から前方のゴールデン・ゲート・ブリッジへと“純白のしめなわ”が舞い降りるのが渡辺には見えた。“しめなわ”とは、87歳になった渡辺が当時を回想して使った言葉である。渡辺にとり“しめなわ”は生命と物質をつなぐ架け橋だった。「生命と非生命に分裂していた世界観の革命的融合」をステントとともに祝った渡辺だったが、宿泊施設にもどると、大魚を取り逃した事への強い自責の念におそわれた。

左から渡辺格、ガンサー・ステント、野田春彦。カリフォルニア大学バークレー校ウイルス研究所の屋上にて。野田博士所蔵の写真。

1953年(昭和28年)、キャベンディッシュに来ていた技術者、トニー・ブロードが作ったとされるミニ版のDNA二重らせんモデルのひとつ。同じものがたくさん作られて、あちこちに送られたらしい。写真は2003年ケンブリッジ大学ウィップル博物館での展示。

1937年(昭和12年)、太平洋とサンフランシスコ湾を分かつゴールデン・ゲート海峡に吊り橋が架けられた。1953年(昭和28年)当時、全長2387mを誇る、世界最大の吊り橋だった。

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