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生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

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株式会社・科学研究所とペニシリン

 1946年(昭和21年)7月、占領軍は理化学研究所の解体を指示。その理由は、理研が多数の会社の株を持つ独占機関である事、つまりは財閥と同列にみなされたわけである。しかし、「研究は日本にも必要だろう」として、研究のための別会社を設立する事を許された。研究所を救う道が他にないと観念した仁科芳雄(55歳)は、1948年(昭和23年)に株式会社・科学研究所の新社長となった。科研の台所は「火の車」、収入の大半を山之内製薬へのペニシリンの販売事業から得ていた。ペニシリンは、戦時中に英米が実用化した特効薬である。

 戦争中、東大医学部・細菌学教室の助手だった梅沢浜夫は「1943年(昭和18年)、陸軍軍医学校の机に、伊号潜水艦で運ばれたドイツの雑誌が置かれていた」。この雑誌に掲載されていた論文「微生物から得られた抗菌性物質」に、ドイツが把握していた英国でのペニシリン研究が要約されていた。同じ頃、米国の大衆誌に「空母サラトガが日本軍機に攻撃された時、火傷を負った兵士にスルホン剤とともに“抗生物質”を投与して、効果を比較した」という記事が載った。1944年(昭和19年)1月には、朝日新聞がブエノスアイレスからのニュースとして「肺炎にかかったチャーチル英首相がペニシリンの投与により回復した」と報じた。“抗生物質”という名称は、後にストレプトマイシンを発見するワックスマンが1942年(昭和17年)に提案したものである。

 こうして、1944年(昭和19年)、柴田桂太・東大教授を中心とする委員会が陸軍に設置された。各研究機関が保管するアオカビ株を使っても、いっこうに抗生活性は得られず、「敵の謀略ではないか」との声が上がる。後から分かったのだが、25度を超えるとアオカビはペニシリンを生産しなくなる。暑い夏が過ぎ、気温が下がり始めた9月、ゴミ箱の割り箸に生えていたアオカビからペニシリン活性が検出された。10月、梅沢とその弟、化学者の梅沢純夫はペニシリンを抽出し、関係者はこれに“碧素”という名をつけた。碧とは紺碧、すなわち青を意味する。

 東大応用微生物学研究所の設立者で著書『お酒の話』で有名だった坂口謹一郎教授が中心となってペニシリン用培養タンクを設計し、森永製菓が静岡県三島で生産を開始した。愛知県岡崎での萬有製薬の生産がこれに続いた。敗戦後もペニシリンの需要は増える一方、そんな中、抽出に使っていた有機溶媒への引火により森永の三島工場は壊滅し、生産の中心は後発の明治製菓や科研へと移った。科学研究所は、ペニシリン含量を迅速に決定する方法を開発しトップメーカーへと躍進した。1948年(昭和23年)頃には、新抗生物質ストレプトマイシンが結核にも効くとのニュースが伝わり、科研はペニシリンから撤退してストレプトマイシンの生産に加わるようになる。

1946年(昭和21年)に連合軍の勧めで設立された日本ペニシリン学術会議の役員となった仁科芳雄(左)は、解体前の理研で開発研究をスタートした。写真は、稼動を始めた科研のペニシリン製造装置前での仁科とプラント設計に携わっていた大山義年。

科研はそれまでの水溶性のペニシリンから、痛みを伴わない油蝋性の開発に成功。1949年(昭和24年)には、ペニシリン生産全国一の能力を持った。

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