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生命情報科学の源流

第8回 焼け跡の東京:デカルトとの対話

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カビの生えたレモン

 敗戦は、日本国民にとり“屈辱”であると同時に、長い苦難の年月からの“解放”でもあった。マッカーサーの強烈な反共意識や奇妙な親アジア心情と、米民主党進歩派の理想主義が混じりあって、日本の戦後が始まった。東大理学部物理学科の教官だった小平邦彦(1946年に31歳前後)は後に書いている。「暖房は炬燵だけ、頻繁に停電した。進駐軍に接収されてアメリカ人が住んでいる家だけは停電が無かった。銀座には進駐軍専用のレストランがあり、その一軒はガラス張り。暖かそうな部屋、煌々と輝くシャンデリアの下でアメリカ人がおいしそうなビフテキを食べていたのを、ありありと思い出す。いつの日にか日本の経済が回復して繁栄するとは到底、考えられなかった。経験のない人には絶対にわからないが、食べるものがないのは実に惨めなもの。それにもかかわらず皆よく勉強した。そして皆よくできた。年度末の試験のとき、あらゆる智恵をしぼって難問を出しても満点をとる人が必ず何人かいた。カビの生えたレモンをできるだけ薄く切っていれた紅茶をすすりながら、夜の8時ごろまでゼミを続けた。もちろん夕食抜き。ろくに食べるものも食べないで皆どうしてあんなにエネルギーがあったのか」。

 寺田寅彦の弟子の中谷宇吉郎は雪の研究の大家となっていた。敗戦時には北大教授(46歳)。1944年(昭和19年)12月、守勢にたつ事を拒否したヒトラーは、最後の賭けに出て、機甲師団の残りを総動員してアントワープをめざした。ジェット戦闘機Me262の生産は間にあわず、連合国空軍には対抗できないため、悪天候による飛行不能状況にたよった。この時、「連合軍は天候回復のために秘密気象兵器を使った」と中谷は言うが、私の知る限りそんな事実はない。戦争中に上京する途中、空襲のために中谷は盛岡で汽車をおりた。一夜の宿を求めた先の主人がとても教養ある女性だった経験を記し、1946年(昭和21年)2月にこう書いている。「日本の力は軍閥や官僚が培ったものではない。だから私は、今のような国の姿を目の前に見せられても、望みは棄てない」。

 敗戦後、朝永振一郎は京都に疎開していた妻子を東京へと呼び戻した。しばらく義父の東京天文台官舎に住み込んだ後、朝永一家は大久保の東京文理大・分室(旧陸軍光学研究所)へと移った。大久保駅の北東には焼け野原が広がり、門前には「この施設は連合軍の管理下にある」という札。構内に占領軍がいたわけではなく、戦争賠償物件に指定されていたのである。占領軍は、居住可能な建物には数字で、倉庫などにはABCで番号をつけた。朝永一家が住んだのは、地下壕。1946年(昭和21年)、戦時中の研究をまとめた朝永は朝日文化賞を受賞、その賞金で“朝永ハウス”の土間に畳が敷かれた。「磁電管の研究」により、小谷正博と朝永が学士院賞を受賞したのは1948年(昭和23年)。この頃、東大新入生の小柴昌俊が朝永ハウスを訪れている。敗戦の半年前に入学した一高の校長、天野貞祐が京大で朝永の父親、三十郎に師事した経緯がきっかけだった。

戦災により大塚の文理大キャンパスが手狭となったため、朝永研究室は、新宿区大久保の旧陸軍光学研究所に移転した。朝永一家が移り住み、“朝永ハウス”と呼ばれた建物は、元は弾道実験室だったところ。研究室にいた伊藤大介氏が、後年描いたスケッチによって当時の様子を知ることができる。

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