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生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

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ルリアのアメリカ

 ルリアがイタリアで生まれた時には、その名はサルバトーレ。米国に帰化した時に、サルバドール・Eに変えた。トリノ大学医学部を卒業したものの、医者には不向きと感じたルリアは、デルブリュック達がベルリンで書いた論文「グリーンパンフレット」に出会う。X線照射によるショウジョウバエ変異率をもとに遺伝子を高分子と結論するこの論文からルリアは「光と生命」に興味を持った。トリノ大放射線医学科が物理学的基礎を全く持たない事に呆れていた時、高校の同級生だった物理学者に誘われて、ローマ大学・放射線医学科に移り、同時にエンリコ・フェルミの下で物理学を勉強するようになる。一足早く渡米したデルブリュックがファージの研究をはじめた事をローマで知り、それまで目指していたローレンスの放射線医学研究所への留学をやめて「デルブリュックがいるパサデナに行こう!」。故障した市電の修理を待つ時、同じ車両に乗っていた生物学者からファージの存在を聞いて知っていた。

 フェルミの下、ローマには有能な若者達が集まっていた。ラウラ夫人が書いたフェルミの伝記にルリアは登場しないが、エットーレ・マヨラナ(1906年生まれ、ルリアの6歳上)という若手物理学者に触れている。「1933年までマヨラナはローマの研究所にいて、その独特で器用な方法で研究業績をあげていました。芸術家のように、なかなか自分の仕事に満足せず、完璧を期さない限り、発表を控える性格でした。1933年にドイツでしばらく過ごしたきり、ローマには戻ってきませんでした」。ここで“ドイツ”というのは、ライプチッヒのハイゼンベルクの研究室。マヨラナは1938年(昭和13年)にナポリからパレルモへ向かう郵便船から失踪した。SF作家の山田正紀は、その小説の中で、原爆を開発した世界史を変えるべく、東京の帝国ホテルに滞在中のボーアに“時間の量子化”に成功したマヨラナを会わせている。マヨラナがねらった次のチャンスは、コペンハーゲンでのボーアとハイゼンベルクの出会いの瞬間だった。

 マヨラナが失踪した1938年(昭和13年)、ノーベル賞受賞のためにストックホルムを訪れたフェルミ夫妻はその足でアメリカへと亡命。夫妻がフランコニア号に乗船したときには渡米は6か月とされていたが、そう信じないものは多かった。ラウラ夫人はユダヤ人だったから、反ユダヤ意識の希薄なイタリア政界は、ヒトラーからのプレッシャーから逃れられるとホッとした。ユダヤ人だったルリアも、まずはパリへと逃れ、パスツール研究所のウォルマン夫妻のファージ研究を知る。ドイツ軍がパリに迫る中、「人類への信頼を失わない様に」とベートーベンを聴かせてくれたウォルマンに別れを告げてルリアはリスボンからニューヨークへと渡った。フェルミが書いてくれた推薦状のおかげでコロンビア大学の研究員となり、強力ながらしょっちゅう故障するX線発生装置に対面した。一方、パリに残ったウォルマン夫妻はドイツ軍のユダヤ人収容所で死を迎えた。

パスツール研究所の敷地内にある、かつてパスツールが生活していた建物は現在、パスツール博物館として公開されている。

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