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生命情報科学の源流

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文明の源流

 全てがなくなった世界には、戦前の束縛もなかった。南部陽一郎(東大の久保の同級生。シカゴ大学での研究がクォークの発見へとつながる)は書いている。「朝永や湯川、久保を、そして後に江崎を生んだあの時代、日本にとって最悪の時期になぜ創造的な仕事が続出したのか。それまでの伝統的な封建スタイルの社会は一度、壊れた。それともあれは一切の説明を受けつけない特殊な時期だったのか」。

 同じように、いやそれ以上に、半世紀前の19世紀末、ヨーロッパには文明が輝いていた。ラウエやネルンスト(熱力学第三法則を発見)が教壇に立ったベルリン、ヒルベルトが全世界の数学者に号令したゲッチンゲン、シラードやフォン・ノイマンが育ったブダペスト、そして何よりも、マッハとボルツマンの子らが活躍したウィーン。そこに生じた人間関係はあまりにも濃密で、科学史を政治史や美術史から分ける事すらできない。ましてや科学者の社会は今とは比べられないぐらい小さく、「顔を見れば分かる」大きさで、物理学と生物学の壁を越える事など苦にしない研究者達が存在した。

 ヒトラーがオーストリア・ハンガリー二重帝国の官吏の子として生まれた事は、歴史の必然であって偶然ではあり得ない。リンツ実業学校の頃、ヒトラーがはじめて間近に見たユダヤ人同級生の一人はヴィトゲンシュタイン。リンツからウィーンへと移ったヒトラーは、そこで社民党が“ユダヤ人幹部に操作されている”事を知る。社民党の創設者ヴィクトル・アードラーの息子フリードリッヒはフロイトと共にウィーン大学で心理学を学んだ。哲学論争の果てに二人は決闘までしたとされる。ポパーが反証可能性にめざめるのはフリードリッヒの医院を手伝っていた時で、フリードリッヒはアインシュタイン夫婦のチューリッヒでの同級生、友人でもあった。これらの都市をむすぶ一帯にいたユダヤ人達のある者は殺され、ある者は米英へと逃れ、今やその影もない。そこにかつて栄えた文化と学問こそが、現代の生命情報科学の源流である。

↑世紀末のウィーンでは、クライス(学団、サークル)を形成する芸術家や学者達がコーヒーハウスにたむろして、独特の雰囲気をかもし出していた。当時の芸術運動(ウィーン分離派)を代表する建築家はオトー・ヴァーグナーで、独特の曲率を持つ様式を生んだ。写真はカールスプラッツ駅舎。現在は駅としては使われておらず、オトー・ヴァーグナー博物館として公開されている。

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