首都圏動物記のトップへ WEB連載 5

写真・文/森達也

第8回 新宿のカラス

 千葉の端のほうに引っ越したこともあって、最近は都心で飲む場合には、終電のことがずっと意識から離れない。でも時おり時間を忘れてしまうことがある。気がついたときには夜中の0時を回っている。そのときの場所にもよるけれど、新宿だと0時10分くらいがぎりぎりの目安。店を出るまで5分弱。駅までは急いで10分。そうすると駅に着いたときは0時25分前後。あとは改札や駅構内を全速力で走る。これで何とかぎりぎり間に合う。渋谷なら0時5分。池袋なら0時15分。
 でも一緒に飲んでいる中央線や井の頭線、京王線や西武線、東武線や小田急線(他にもいろいろあるけれど省略)沿線に暮らしている人たちは、僕よりも終電は10分から30分ほど遅い。だから鷹揚に構えている。

 テレビ・ディレクターをやめて最初の映画を作った頃、僕は本当に貧乏だった。当たり前だ。収入がないのだから。だからみんなで飲むときは、とにかく時刻に細心の注意を払っていた。中央線や井の頭線、京王線や西武線、東武線や小田急線沿線の人たちは、万が一終電を逃してもタクシーがある。ある程度の人数が集まると方向が同じ人は何人かいるから、タクシー代を人数で割ればそれほどの出費にはならない。それにそもそも家まで数千円の人が多い。
 ところが僕の場合、何しろ千葉と茨城の県境近くなのだから、タクシーになど乗ったらとんでもないことになる。おまけに方向が一緒という人もまずはいない。だから0時を少し回った頃、いつも「じゃあお先に」などと言いながら帰り支度を始めていた。映画の制作スタッフや劇場関係者たちはこの頃、「森は帰巣本能が強いなあ」とよく笑っていた。違うよ。貧乏なだけだ。

 2作目の映画「A2」を都内の小劇場で上映したそのあとに、一部の観客とスタッフたちも一緒になって総勢20名あまりで、新宿で打ち上げをしたことがある。その日はチケットもソールドアウトで、僕もテンションが上がっていた。それに上映が終わってからだから、飲み始める時間がそもそも遅い。あっというまに0時が近くなる。それはみんなも同様らしく「今日は朝まで飲みますか」などと(ささや)きあっている。ならば僕もたまにはみんなに付き合って朝まで飲もうかなとつぶやいたら、全員が嬉しそうにそうしましょうと同意した。だから居酒屋の(すす)けた壁に取り付けられた時計の針を眺めながら、僕は1947年10月14日にジェットエンジンを搭載したベル「X-1」に乗り込んで音速の壁を初めて越えたチャック・イエーガーの気分だった。

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